オールヌードの着こなし方

あなたの裸のココロを着こなせ

自分の感覚を捨てた時に、人生は強烈に光を失う。

自分の感覚を捨てた時に、人生は強烈に光を失う。


「人のドロドロは愛せるのに、自分のドロドロはもう勘弁とか、ダサイこと言ってんじゃねえよ」尊敬する人から言われた言葉で、強烈に刺さった。


ここ一年間の人生は、自分の中のタブーに向き合ってきている時だった。
出来ない自分
好きな事以外したくない自分
お金を借りる自分
稼げない自分
何も出来ない自分
まあ、情けない自分を見てきた。
でも進めたのは、夢があったり、この先この道を進めばもっと大きな幸せがあると思ってきたからと、もう、こんだけ散々やってきたんだから、さすがにこれ以上のはないだろうと思っていた。


でも、現実として叶えたいものは何も叶って来なかった。
自分は成長している、色んなものを知った。けど一年前と何も変わらない現実に心底疲れ果てた。
それはそうなんだ。叶えたいものの中とかに自分がいたとしても、良くなる為、上手く行く為に自分を使ってきていたから、自分をどこか置き去りにしてきたんだ。
自分の為に知識や知恵を使うんじゃなくて、知識や知恵の中に自分を入れていたからだ。


それはもう辞めようと自分自身に誓った。
汚いドロドロとした自分は自分の中に確実にいる。


BUMP OF CHICKENのダイヤモンドの歌詞で

「大嫌いな弱い僕を、ずっと前にここで置き去りにしたんだ。」
「何回転んだっていいさ、何回迷ったっていいさ、大事なもんはいくつもないさ、後にも先にも」
「一つだけ一つだけ、その腕でギュッと抱えて離すな。世の中に一つだけかけがえのない生きてる自分」
「弱い部分、強い自分、その実、両方が、かけがいのない自分」
「誰よりも、何よりも、それをまずギュッと強く抱きしめてくれ」

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世の中の真理や正解を求めて、歩く人生が正しいし、自分の為になると思っていた。
その中で自分の為になった事は多いけど、違和感がある時もあるんだ。その違和感を感じない様にしてきた。「自分が理解していないだけ、自分がそれをきちんと実践出来ていないだけ」そう言い聞かしてきた。


でも、それらも捨てて、自分の感覚を信じると決めた。自分の人生を生きると決めて、最近過ごしてきた。進んでないのも、何もかも自分の責任で、自分がやりたい事をやりたい様に、自分が出来る事を出来るとこまでやる。何かを観たり、聴いたり、読んだりしても、その中から出て来る自分の感覚を大切にしてきた。
だから、この数日は楽しかった。結果がどうかなんて関係ない。自分の人生を自分の中にある正解、想いで進んでいる日々が楽しかった。


でも昨日、自分の人生をちょっと放棄してしまった。
この人たちに嫌われたくないから、お世話になってくれた人だから、応援してくれている人達だからと。そしたら、どん底に行った気分になった。
でも、ここだけは嫌らわれてはいけない、合わしておかなければいけない所だと思っていたから、離れてはいけない場所だと思っていたし、好きでいなければいけない場所だと思っていた。そうなったら人生終わる、自分の望みは叶わないと思っていた。


これは相手の問題じゃないんだ。自分が自分に嘘をついて、自分の人生を明け渡したからだ。自分の感覚や、想いを脇において、誰かの為に・何かの為に生きたからだ。
大切だと思う人がいたとしても、自分の感覚、想いを脇においてしまうと自分を無視して、自分自身が傷つくんだ。人は自分の人生を生きている、だから自分も自分の人生を生きなければならない。


僕の中には、絶対治さなければいけないと思っている自分がいる。
人より確実に自分の方が凄いわと思っている自分だ。自分のいう事を聞いておけよ!て思っている自分だ。この想いが汚過ぎて、ドロドロ過ぎて、なんとかしようと思っていた。
けど、経営者になりたいとか、成功者になりたいとか純粋に想っている自分がいるのであれば、そういう想いも、あって当然なんだ。そう思っている人間なんだから、誰かが正解を教えてくれても自分でやらないと納得なんて出来ないんだ。
ひたすら自分自身の問題だ。


治そう、治そうと思ってここまで来た。そんな弱い・汚い・ドロドロした自分を消化して、いい方向に出る様に変えて生きようってしてきた。
けれど、この部分は自分でも大嫌いだけど、自分の中に確かにいるし、それを自分の中で無かった事にして、行動した時には、その後、なんとも言えない絶望感や、苛立ち、虚しさを感じる。無駄な時間を過ごしたと感じてしまう。


ドロドロしているものは人生で、まだこれからもどんどん味わうんだろう。
汚い自分を見る度に嫌になるし、治したくなる、けれど、それを持って生きているのが自分で、それを切り離す事は出来ない。
僕は神でも、なんでもないし、綺麗なだけを見せて生きる事は出来ない。正しくはもう出来ない。自分の心に従って生きていないと、気持ち悪すぎるから。

 

一番大切なものは真理でも正解でもなんでもない。


「一つだけ一つだけ、その腕でギュッと抱えて離すな。世の中に一つだけかけがえのない生きてる自分」


これだけなんだ。これは利己的になれとか、独善的になれとか言っているわけではない。自分だけは自分の感覚に正直に生きろという事だ。違和感の逆に言ったり、タブーだと思っているけど自分はそこに行きたいと思うのであれば進めという事。


僕は人間みんなが、そうやって好き勝手生きたとしても、この世界は素晴らしいものになると思っている。
誰かが正解を教えて、鵜呑みにしてしまう自分がいるから問題は起きるだけだと思っている。自分を信頼する、自分を愛するっていうのは、そういうものだ。
世間的な部分からの愛し方や、一般的な愛し方ではない。自分の中にある想いで愛すればいいんだ。それは自分にしかわからない事だ。誰かに言わなくてもいい。とにかく自分が自分の想いを大切にすればいい。

「弱い部分、強い自分、その実、両方が、かけがいのない自分」
「誰よりも、何よりも、それをまずギュッと強く抱きしめてくれ」

人は自分以外を愛する事は、たやすいことだ。愛の種類は色々あるし、結局はその人の人生だ。ただ自分の事となると、想いに応える事は難しい。どうしても我儘や傷つけないか?と考えてしまう。


自分で誰かを傷つける位なら無かったものにした方がいいとも考えてしまう。だけど自分だけが聞けて、自分だけが叶える為に動ける存在だ。自分を満たす、自分を愛するって心地いい言葉だけど、本当は厳しい言葉でもある。

 

聖書に「隣人を愛しなさい」ってあるけど、あれは「汝の様に、隣人を愛しなさい」だ。だから、隣人を愛したいのであれば、まずは自分をとことん愛し抜く事だ。
自分が、どこまで自分の想いを愛していけるのか?僕は、そうやって生きていくと決めた。